●中学2年生〜高校生編●
東京の母親の実家は、祖母と叔父の2人暮らしで、そこへ母、姉、私が住む形になりました。祖母は、元気でサバサバした性格の優しいおばぁちゃんで、叔父は真面目な性格で、遠からず近からずの距離感で、あまり深く接する事はありませんでした。
母親は、おそらく夜の仕事をしていました。昼も働いてたようではありますが、よく分かりません。
私は新しい中学での生活が始まり、特に重大な事件もなく過ごしていました。
後から聞いた話では、福島なまりを陰でバカにされていたみたいですが、普通に仲良く過ごせていたと思います。
ただ1人、頭がおかしい教師がいて、チンピラのような風貌で、中学生の私達に対して威圧的で、好き勝手いじめて威張りくさってました。「女子生徒にも軽くちょっかい出していた」と、噂レベルではありますが聞いていました。
私達が卒業と同時に、何か問題を起こしたようで辞めていました。
このような教師って、大人になった今考えると、本当に気持ち悪い人種だと思います。なぜ教師という職業にこのような人種がたまに居るのか不思議です。
このような人種は、教師にはなれない仕組みを作ってほしいです。
私は中学を卒業し普通科の都立高校に入学します。
この頃、祖母の家からアパートへ引っ越します。
恋愛の話をすると、中学の転校後から、たまに手紙のやりとりをしていた福島の同級生の女の子に対して、片想いをしていました。
電話で話をしたり、私が福島へ行き、会ったりもしていて、私の事を好きっぽい事を言うが、告白するとフラれる。みたいな事を、高校の途中まで約4年間くらい続けていました。
今で言う『非モテコミット』ですね 完全に。
3回くらい告白をして、3回目フラれた時に諦めましたが。
その後、同じ高校の女の子と付き合い始めます。かなり重く、付き合っていました。
私の恋愛の特徴は、すごく一途に相手に依存する性格で、直したくても直せませんでした。
約3年間付き合い、相手に浮気されて別れました。
高校の途中、まだこの彼女と付き合っている頃、家庭では、次女と母親がよくケンカをし、家賃滞納やら水道が止まるなどしていました。
衝撃的に覚えているのは、 ある時母親が、
「心中しよう」と言った時でした。
どこまで本気だったかは分かりませんが、最悪に暗い環境でした。
私は高校からコンビニでバイトしたり、オフィスの照明清掃や年賀ハガキの仕分けのバイトをしましたが、あまり長く続きませんでした。
年賀ハガキの仕分けは短期のバイトでしたが。
タウンワークなどで探しても18歳からの求人ばかりで、うまく探せませんでした。
今のようにネットで探せたら、見つけられていたかもしれません。
そして、高校は真面目な優秀な学校へ変化しようとしていて、頭髪が黒くないと学校へ入れない状態になっていました。
私は、その頃、金髪にしたり、白髪にしたり、グレーにしたりと、髪の色を派手にするのが好きな時期だったので、この学校の変化はキツかったのを覚えています。
それに加え、家庭環境の暗さで起こる胸のザワつきなどで、黙って席に座り勉強する気には到底なれず、高校で勉強している意味も見出せなかったので、辞めて働き出します。
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●労働者編1●
まず、母親の紹介で空調設備の会社に就職します。
「俺は、この仕事してなけりゃヤクザになってた」という、毎日帰りはワンカップを飲む社長の元、働き出します。
正に軍隊のような仕事場でした。
この頃、切ってもらっていた美容師に、「うちで働けば」と冗談交じりに言われ、その気になり、会社を辞めて、見習いとして働き出します。
結構大きなフランチャイズ店の美容室です。
働きながら美容師資格を取れる通信学校を受けます。ただ
無知で頭が悪い私は、入学金が必要など考えておらず、まず25万円程払わないといけないと合格通知が来て、『見習い仕事もつらいし、払えないし辞めてしまえ』と、辞めてしまいます。
この頃から、私は本当にダメな人間だと思い始めます。
次に塗装業で働き始めます。建設現場や一般住宅の外壁の塗り替えなどをする仕事です。
同期で入った男の子が居ましたが、約半年くらいで辞めていました。
『親方』と呼ばれる現場で一番偉い人間にいびられていたからでしょう。
その同期が辞めた事で、今度は私がいびられ始めます。
何かあれば、怒鳴られ、私は物心付いた時からアトピー性皮膚炎で、今でも少しあるのですが、その事をいじられたりもしました。
別に不良な感じの人では無く、悪い蛭子さんのような人でした。
それでも耐えて、約3年くらい働いていましたが、嫌になり辞めてしまいます。
この頃から『死にたい』と思い始めます。
次からは建設現場の雑務をするバイトや倉庫内作業などで働き始めます。
この頃、同じ高校だった友達に『バンドのボーカルやってくれない?』と誘われて、バンドをやり始めます。
その友達の紹介で、居酒屋で働き始めます。
それなりに楽しい生活なのですが、何故かフと気付くと『死にたい』と思ってしまいます。
我慢できず、よく口に出して「死にたい」や「死んだ方がマシ」など言っていました。
周りの友達は、始めの頃は笑って流していた感じでしたが、人によっては不快感を与えてしまっていて、「もう そういう事言うなよ」と言われてから、あまり口に出さないようにしました。
同じバイト先で、同じ母子家庭の友達は、同じような思いで生きているようで、私の考えに共感してもらい、すごく仲良くなりました。
この頃、バイト先の友達の友達も含めた飲み会で、今の彼女に出会います。
約2年くらい経ち、バンドは解散し、働いている居酒屋が閉店します。
その後、携帯電話の修理の工場で、契約社員として働き始めます。
自分の中では「もう、腰を据えて働こう」と思いながら働いていました。
ただ、家に帰りフとした時、また死にたくなります。
ある時、本当に強く『死にたい』と思い、携帯電話で『死にたい』と検索すると、思いも寄らない情報が書かれていました。
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●労働者編2●
そのサイトには、『何故、現在、あなたが死にたいのか』という理由が書かれていました。
要約して書きますと、
●世の中の仕組み
●お金の仕組み
●資本主義の仕組み
●現代の奴隷
●労働者を作る教育制度
などです。
歴史から現在に至るまでの、社会の仕組みを知ることにより、死にたくなるのは決して自分個人のせいでは無いという情報が書かれていました。
知っている人は当たり前に知っている情報かもしれませんが、私にとっては初めて知る情報でした。
その情報からアフィリエイトへ流れたり、怪しい勧誘をするサイトもありましたが、私にとっては、とても面白く、ためになる情報でした。
その後も、そのような情報をよく調べました。
しかし、それらの情報を知ったからといって、何かが変わる訳でもなく、結局今まで通り奴隷のように働いて生きて行くしかなかったのです。
だから私は、死ぬ前に何か残しておこうと思い、作詞作曲をして、楽曲音源として世の中に残していく作業を始めました。
この頃、携帯電話の修理の仕事は、私の所属部署の移転や毎日のように残業5時間程させられ、結局辞めてしまいます。
その後、スポーツ用品のピッキング、入出荷業務のアルバイトを始めます。
この頃は、バイトと楽曲制作、練習、音楽理論の勉強、バンドを組み、レコーディングなどをやり続けます。
この頃も、『死にたい』という思いはありましたが、今 思えば一番充実していた気がします。
しかし、この時ある事件が起きます。
母と次女は、もう何年間もケンカをしていて、この時、様子が変わり始めます。
正直私は、働いて家帰って、ギター練習して寝る。をただ繰り返し、母と次女がケンカしていようが、気にしないように生きていました。
昔からそうしていました。気にする余裕もなかったし、私は家族とあまりコミュニケーションをとりたくありませんでした。
次女は、大学卒業後、子供服の会社に就職します。おそらく、4,5年くらい働いていたと思います。
ただ、きついおばさん客や先輩がいて、かなり傷付いてしまったのだと思います。
退職後は短期バイトをたまにやる程度で、ほぼ家に引きこもっていました。
次女は「私は健吾より親に愛されていない」と昔からよく言っていました。
ある時、バイトから家に帰ると母親が、次女がおかしくなったと助けを求めてきました。
まったく普通だった次女が、少し知恵遅れのような状態になっていました。
母親が精神科に一緒に行こうとしても、病院前で逃げたり、頑なに行こうとはしない状態でした。
私は、次女とは別に仲が悪い訳でもなく、どちらかというと良い方でした。ただ、頻繁にコミュニケーションはとっていませんでしたが。
母親が私と次女が話しをすれば少しは回復すると思い、私がバイトから帰ったら次女と話しをするという生活が始まります。
まず、次女の病名は『統合失調症』という病気だと母から聞きました。母は精神科に相談していました。
次女の症状や、詳しい話は今は止めておきます。
ある日、いつも通りバイトから帰ると次女が、すごい剣幕で「母が警察に言った!私を強制入院させにくる!」と叫んでいて、母は「そんなことしてない」と言っていて、私はバイトの疲れや、ずっと話を聞いていた疲れなどで、怒鳴ってしまいます。「いい加減にしてくれ!」と...。
そして数日後、バンド練習から帰ると母親が、生気を失った顔で、「次女が自殺した」と言い座り込んでしまいました。
2日前から帰ってきておらず、母親が警察に捜索願いを出していたようで、ある場所で自殺をして、警察からその連絡が来たようでした。
警察が言うには、「所持品などで次女本人かどうかの身元確認をしてほしいので、署に来てください」との事でした。もう夜中の1時頃だったので、叔父に車を出してもらい署に行きました。
母親は横になって動けなそうでしたので、私と叔父と2人で行きました。
バッグや手帳から、すぐに本人の物だと分かりました。
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●労働者3編●
私は約10年間『死にたい』と思いながら生きてきました。
ただ、この姉の死をきっかけに少しだけ変わりました。
『死にたい』とは思いますが、『自殺』はちょっと違うんじゃないか?
と思うようになります。
次女は、正確には『自殺』では無く、『病死』です。
ただ、私はやはりこの事件をきっかけに、少し変わった気がします。
その後、バイト先の倉庫が埼玉の奥地に移転するという事で、アルバイト従業員が解雇となります。
私は次の職を見つける前に、全レコード会社に自分の音源を送りました。
結果は何も返事はありませんでした。
予想通りではありましたが、やはり少しヘコみました。
そして私は、約7年くらい付き合っている彼女との『結婚をするのか』、『結婚しないなら別れるのか』の2択を選ばなければいけない時期、年齢になっていました。
これは、女性としてみたら当たり前な事で、子供を産むのに年齢が心配になってきます。
『このままこの男と付き合っていても、家庭を築けなさそう』であれば、早く別れて『家庭を築けそうな男』と結婚した方が良いに決まっていますし、人によってはそうしなければならないくらい重要な事でもあります。
元々、私は結婚願望が一切ありませんでした。
今までの『生い立ち』を最初から読んでいただいている方であれば、お分かりかと思いますが、
このような家庭環境、親を見てきた私は、家族などクソだと思っていましたし、
何より、奴隷のように働いても、私の経歴では子供を養うにはかなり厳しい収入の仕事にしか就くことができない事が一番の理由でした。
なので、自分の唯一好きな音楽関係でソコソコ収入を得られるようにならなければ、家庭は築けないと思っていました。
家庭を築くことは、やはりお金がすごく大事で、しかも毎日嫌々働いている環境だったら、絶対に幸せな家庭など築ける訳はないからです。
まして、自分の事で精一杯な上に『死にたい』と思っているような私では、家庭など築ける筈もないからです。
ただ、彼女は2択を選択する時期になっていました。
私は正直、すごく悩みました。
悩んだ末、『結婚』を選びました。
私は、彼女と別れる事など考えられなかったからです。
そして私は、防水工という建設現場系の仕事に就きます。
面接の時、血液型を聞かれ「B型です」と答えたら、「うわっB型か〜」と嫌な反応をされ、少し気になってはいました。
しかし、頑張って働く気満々だった私は、採用をいただき、すぐに働きだします。
しかし、事あるごとに「だからB型はダメなんだよ!」とか、「マジでB型は適当でダメなんだよ!」と、真面目に責められ始めます。
おそらく、今は違う現場に行っている従業員の中で、仕事ができないB型がいたり、今まで働いていた従業員の中でダメなB型がいたのだと思われました。
始めは冗談でそういうイジりなのだと思って、笑って流していましたが、何日も本気で『B型だから』という否定をされ続けました。
我慢できなくもなかったのですが、やはり建設現場系は朝が早く、車で行く為、渋滞など何があるか分からないので、現場前には1時間以上早く着き、待機。帰りもソコソコ遅い。
といった事が当たり前で、その仕事以外の事をやれる時間がかなり少ない事にやってられなくなり、辞めてしまいます。
そもそも、血液型をこんなに信じ込んでいる人達に驚きを感じました。やはり、メディアの洗脳というのは凄いなと思いました。
次の仕事を探していた時、仙台にいる長女から電話が来ます。
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●労働者編4●
長女が「父親が高給の仕事があるから、話したいと言っている」との事でした。
そして、父親の電話番号を聞きました。
離婚後父親とは、父方の祖父が亡くなった時と、長女の結婚式に会ったくらいでした。
父親の事は、もちろん良い印象は無く、離婚以前の子供の時の記憶でも、良い印象はありませんでした。
父方の家系は戦後から5代?まで続いた、船の部品を作る工場を経営していました。
しかし、祖父が経営している時、倒産します。
この時に私の親は離婚する事になります。
その後、私がこれまでの人生を歩んでいる間、父親は事業を始め、それなりに稼いでいたようです。
おそらく、資産が残っていて、それを元手に事業をしていたのだと思います。
私にとって父親は、頭に浮かぶ事もほとんどない存在だったので、憎んでいた気持ちは多少あったのかもしれませんが、どちらかというと、何の感情も湧かない『無』な存在だったので、利用できるなら話を聞いてみようと思い、父親の所で働き始めます。
父親は事務所を持っていて、次の事業の研究、開発中で株主を集めたり、銀行からの融資を集めている状態でした。
私は、電話応対など事務作業、事務所改造の工事、今までの事業の整理から発生した売れる物の営業などをしました。
ただ、全然利益がなく、給料も10万円で、ギリギリ生活できない状態でした。
交通費に月1万円かかり、家賃、食費、通信費、健康保険など、どう頑張っても足りませんでした。
『自分で稼ぎ出す事を見つけて稼げ』というスタンスで、私がやりたいビジネスモデルを言ってもダメ出しというか、父親の分かるジャンルではないという事で、却下されました。
2回程、辞めると言ったのですが、自分で稼げる力を付けてほしいという事で、止められました。
父親が言うには、「これからどこかの下請け会社に就職しても、幸せにはなれないぞ」という事でした。
確かにその通りなのですが、自分の中ではまたどこかで働きながら、やりたい事を進めるしかないかなと思っていました。
それと、父親は根本的に信用できる人間では無いというのもありました。
ちなみに、この時期に『高等学校卒業程度認定資格』という『旧大学資格検定』を一応取得しました。
世の中、本当に『高卒以上』の求人が多いので一応取得しました。
ただ、これを取得したからといって、学歴が『高卒』になれる訳ではありませんが。
結局、私は辞める事を決意し、父親の所を辞め、メッキ加工工場で働き始めます。
現在に至ります。
今は、音楽の事や、彼女の事、仕事の事を『どうにかしなければ』という事で頭がいっぱいで、『死にたい』という思いが、少し薄れている気がしますが、フッとした時に無性に死にたくなる時があります。